放っておいたら記事投稿が不可に?
昨年のブログに書きましたが、ここしばらく留学準備に没頭していました。
当初必要なかったはずのエッセイ6000ワードを泣く泣くイチから書き上げ、ようやく第一志望のケント大学(カンタベリー)の文学部大学院から合格通知をいただきました。
今年はコロナの影響でイギリスへの引越しが難儀なので、来年(2021年)の秋の入学に繰り越しをお願いしたところ承諾してもらうことができました。
怠けたい心境になること多々、その度に林先生の「いつやるの、今でしょ」の不朽の名言を口の中で呟きながらなんとか乗り切りました。
これから1年ゆっくりと本など読んで準備しようと思ったところ、ココログから「9月1日以前に記事を更新しないと今後の記事の投稿を不可にしますよ」というお知らせ。一定期間放っておくとブロックされてしまうことを今まで知りませんでした。
4年半いたカリフォルニアも来年でさよならの予定です。留学が終わってどこに住むのか、アメリカか日本かまだ最終的に決めていませんが、まず北カリフォルニアのような物価の高いところには戻ってこないでしょう。
これから一年、カリフォルニア組のロックを中心に聴いて名残を惜しむことにしましょう。
TOEFLとクラプトン
久し振りの投稿になりました。
過去記事に星をくださった方、コメを記入してくださった方に御礼申し上げると共に未読状態が続いていて失礼いたしました。
ここの2カ月ぐらいはTOEFLに向けて問題集をひたすら解くという、この年になって今更の受験生生活を送っていました。
イギリスの某大学院に留学したいと思っているのですが、なぜ米と英に通算20年以上も暮らしているのにTOEFLなのか、私もわかりません。
英語のネイティブでない人間は全て英語の試験による証明を要求している学校が多いのです。「過去5年以内に英語圏の学校で学位を取った者は試験が免除される」らしいのですが、私がフィラデルフィアの学校に行ったのは20年以上も前の話なので免除の対象から外れます。
近年TOEFL を受けた方はご存知と思いますが、20年以上前に受けた時とは比べものにならないぐらい難しく、コンピュータに向かって喋るスピーキングとエッセイ2本をこなさなければなりません。
過去問をそれなりにやっていたのですが、パート1の長文読解の1問目で調子が狂って時間を食われ、最後の方は問題を読まずにめくら滅法に4択を押していました。次のヒアリングは一番自信があったはずなのに長文読解のショックが災いして全く集中できず。
休憩時間を挟んだスピーキングとライティングで何とか調子を取り戻したものの、終わった後はこれはボロボロの点に違いない、あと何回受けなればならないのか、と暗澹として気分でした。
2週間後に受け取った点数は120点満点中の96点。意外にも長文読解とスピーキングで点を稼いでいました。長文読解というのが曲者で、4つの大きな問題中に1問がカウントされない俗にダミーと呼ばれている問題が潜んでいます。どうやら問題を見ないでめちゃくちゃに回答した最後の問題が運良く点数にカウントされないダミーだったらしい。
アメリカの一流校は120点中100点以上とらないと足切りされるらしいですが、目標にしているイギリスの何校かは90点台の後半でも受験できるのです。上を見ればキリがないし、英語圏に住んでいる割には100点に届いていないのは悲しいですが、また受ける気力が失せたのでTOEFLは一回で終了予定です。
これから願書というか、志望動機のエッセイ、学校によっては研究したい分野の小論文を書くというハードルがありますが一個一個クリアしていくしかありません。
最近「何とかなる」が口癖になりました。
さてこのTOEFLの3日前にサンフランシスコのエリック・クラプトンのコンサートに行ってきました。
タイミングが悪いけど、数ヶ月前にチケットを買っていたので仕方がありません。
SFのチェース・センターという、つい最近できた巨大な会場です。
メガネをかけたクラプトンさん、一見大学教授かなんかのようなインテリ風でいい感じに歳をとっています。
クラプトンの曲はそれほど聴いていなかったので、どの時代の曲かわからない曲も多かったですが、やはりクリームの曲はいい曲が多かったと実感。「バッジ」など何十年ぶりかに聴きました。
クラプトンのライブは今回が初めてですが、もう少し若い時に行って見たかったと思います。しかしギターも声もさして衰えることなく(と思います)。
チェースの会場があまりにも大きいため、チケットに200ドルも支払った割に何と6階の席。演奏者は米粒サイズでした。
これまでコンサートは比較的いい席が多かったのですが、この距離はむかーし行った武道館よりも遠い。まあ昔と違ってスクリーンに映し出されるだけましです。
200ドルも払ったのに、と隣の席の髪を三つ編みにした60代と思しきジェファーソン・スターシップ大好きの女性にぼやいていたら、「あたしもそうよ。アリーナに座りたかったら1000ドルぐらい払わなきゃダメなのよ」と。
10万円は出せませんよ!
このクラプトンを皮切りに10月にはピーター・フランプトン(引退ツアー)、スティーヴ・ハケット(元ジェネシス)と私的ギタリスト祭り、のはずだったのですが、風邪気味なのに加えて遠い、夜8時開演という条件で見送りになりチケットを売るタイミングも逃しました。
もっと近くでやってほしい。
「切り裂きジャック」と「ディケンズ」がシンクロ
このところチャールズ・ディケンズの「大いなる遺産」と服部まゆみ著「一八八八切り裂きジャック」に没頭していました。
切り裂きジャック(Jack the Ripper)は19世紀の後半、知られているだけで6人の売春婦を次々に惨殺しロンドンを震撼させた実在の殺人鬼。
「一八八八」は日本人の華族令息でロンドン警視庁に所属する鷹原が切り裂きジャック事件の捜査に関わり、彼の下宿に同居している帝大医学部の同級生で病理学者の柏木がシャーロック・ホームズのワトソン役よろしく巻き込まれていくミステリがメイン・プロットになっています。
が、謎解きものをはるかに超越して、二人の華族青年の視点から見たヴィクトリア時代のロンドン、実在の王太子とその子息で退廃的な殿下との交遊、日常、ロンドンのアンダーワールドの描写が半端なく面白いのです。
登場人物も王家の人々、バーナード・ショウ、怪しげな降霊術師、柏木が一目ぼれした「謎の美女」ヴィットリア、不思議の国のアリスを思わせる生意気な少女ヴァージニアなどそれぞれが魅力的。
中でも物語の最初から最後まで重要な役割を演じているのが、これも実在の人物で「エレファント・マン」ことジョゼフ・ケアリー・メリック。
奇病のために外見が人間離れするほど著しく変形し、見世物小屋の出し物にされたエレファント・マンの悲劇は1980年に映画化もされています。
見世物小屋から解放されロンドン病院に収容されたメリック氏と学問的な興味から意思疎通をしたい柏木に、メリックは通り一遍の返事しか返してこない。一方、鷹原の方はメリックとやすやすと意思疎通し意気投合している。
その鍵はメリックが愛読しているディケンズの「大いなる遺産」でした。
鷹原に勧められてこの作品を読んだ柏木もディケンズの著作にのめり込んでいきます。
実は私はたまたま「大いなる遺産」を読んでいる途中で「一八八八」が配送されてきたので、2冊を同時進行で読むことになり、全くの偶然で作中人物と行動がシンクロする状況になりました。
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「大いなる遺産」(Great Expectations) はひょんなことから大金を手にすることになった青年の生活環境と心理の変遷を描いた作品。
両親や兄弟に死なれ年の離れた姉しか肉親がいない少年ピップは、姉にお荷物扱いされ、毎日のようにどやされ、気のいい義兄が営む田舎の鍛冶屋の見習いをしながら、自分の人生はこんなはずじゃないと鬱々とした日々を送っている。
ある日、近くの町外れに住む金持ちの老嬢(死語ですが、まさにそれ以外の表現が浮かびません)ハヴィシャムの気まぐれで、彼女の屋敷に出入りするようになり生活が一変する。
このハヴィシャム嬢がそれはケッタイな人物で若い頃に結婚式の当日に婚約者に逃げられたショックから20年以上にもわたって当日着ていたウェディングドレスを着て毎日生活しているのです。純白だったレースは当然全て黄ばみきっています。
このハヴィシャム嬢にはエステラという養女がいて、ピップは美少女のエステラに一目惚れします。
ところがエステラは養母のハヴィシャムから「男なんてロクでもない、信用するな」という教育を受けて育ってきているので人に好意を持つ、という感情が全く理解できない。おまけにプライドだけは高いので、垢抜けない少年のピップなど馬鹿にする対象以外の何者でもありません。
普通に考えて美人なだけで全く自分になびいてくれない、どう見ても性格の良くない女性にそこまで思い入れますかね、と言いたくなるぐらいエステラはピップにとって生活の全てになってしまう。
やがてピップに思いもかけず大金を贈与するという正体不明の人物が現れ、ピップはロンドンで紳士となるべく生活をスタートする。
初めはおっかなびっくりでロンドンに出てきたピップも、徐々に浪費を覚え、不遜にもなり、自分に優しくしてくれた人のいい鍛冶屋の義兄のことなど別世界のように感じ始める。
全てがトントン拍子に行くかと思った矢先にある人物が登場し、彼の人生は思いもかけない方向に転がって行く。
この人物の登場あたりから物語は佳境に入り、鷹原が「手に汗握る」という展開になって行きます
ディケンズらしい「こんな偶然あるわけない」という部分はあるものの、面白く巧妙なストーリーです。
個人的には主人公ピップよりも、常にピップの味方になってくれている親友で陽気な青年のハーバートの方が好感が持てます。
そしてピップのエステラに対する思い入れのしつこさ。
エステラは多少カドが取れたようで最後まで何を考えているのか分からない女です。
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さて「一八八八切り裂きジャック」はお勧めです。
特にヴィクトリア時代の英国に興味がある方には、770ページの分厚い文庫の隅から隅まで、みっちりと19世紀の雰囲気を堪能できます。
探偵役の鷹原が絶世の美青年、語り手の柏木が可愛い系のイケメン、というあたりは女性作家らしいご愛嬌ということで。(実写ドラマなどは作らないでほしいものです)
ヴィクトリア朝を題材にした日本人作家では北原尚彦氏の短編も面白いものが多いです。
ちなみに切り裂きジャックによる一連の事件は19世紀の終わり近くで1854年に出生したという設定になっているシャーロック・ホームズにとっても脂の乗り切った時期ですね。
コナンドイルが切り裂きジャックを題材にした話は聞きませんが、ホームズだったらどんな謎解きをしたのでしょう。
ユーライア・ヒープ 「対自核」で喝を入れる
久々に酷い風邪でダウンしました。 38度台の熱が5日ぐらい続いて抗生物質も効かず、ピークが39度3分って一体いつ以来でしょうか。
とは言うもののブログが滞っていたのはそれ以前からなので言い訳にはなりませんが。 好きで始めたのに70数記事で早くも倦怠の波に見舞われておりました。
この辺で威勢のいい音楽を聴いて喝を入れてみましょう。
ロックの曲・アルバム名には不可思議なものが多いですが、「対自核」というのは意味不明さでも断トツといっていいでしょう。
1971年発表のユーライア・ヒープの3枚目、原題は「Look at Yourself」。直訳をすれば「汝自身を見よ」。
ミック・ボックスのアイデアでオリジナルのアルバム・ジャケットは鏡面になるようにアルミ加工になっていました(私の持っているCDは単なるグレーの印刷)。
ケン・ヘンズレーのキーボード、ミック・ボックスのギター・リフ、デヴィッド・バイロンの裏声ヴォーカル。想像しただけで元気が出て来ます
「対自核」(Look at Yourself)
ドラムより太鼓といった方がしっくりのイアン・クラークのドラミングとケン・ヘンズレーのオルガンで始まる表題曲。
重厚なシャッフルは文句なしに好きなジャンルです。
ヘンズレーの作でヴォーカルも本人ですが、バイロンが裏声でコーラスに入っています。
キーボードのソロ、さらにファズの効いたギターのソロ。
「何から逃げているんだ
誰も追って来てないじゃないか
怖がってないで
ちゃんと自分自身を見ろよ」
という歌詞ですが、畳み掛けるリズムに追われて何だか走りたくなる。
終盤、ドラムのビートをバックに入ってくるパーカッションはアフロ・ロックバンド、オシビサのメンバー。
やがて全楽器が混然一体となって収束へと向かいます。
2曲めの「自由への道」(I Wanna Be Free)
ハモンド・オルガンをバックにバイロンとヘンズレーのハーモニー、そこにベースがいい感じで入ってくる序盤の美しさ。
ギターの掛け合いもバイロンのファルセットのスキャットもいいし、個人的にはポール・ニュートンの高音部のベースのうねりがツボです。
「7月の朝」(July Morning)
ブルガリアで毎年7月1日に黒海の浜辺に集まって日の出を見るお祭り。
そこに出かけて活力に満たされて家路を辿る男の歌ですが、本場のブルガリアでは80年代にユーライア・ヒープの「7月の朝」がヒットしたためにお祭りのJuly Morningという呼び名が定着したとWikipediaにあります。
黒海に昇る太陽 (日本海でも太平洋でも画像はそう変わりませんが)
美しい曲をバイロンがヴィブラートのかかった声で歌っています。
特に良いのは民族音楽を思わせるもの悲しいメロディをキーボードで演奏する中盤と終盤。
終盤のマンフレッド・マンのミニ・ムーグが入りビンビンと飛び交いながらうねっていく様はまさに圧巻。何とも快感です。
「対自核」の魅力をさらに上回る聞き応えのある曲です。
この曲、日本とヴェネズエラでシングル・カットされた、とありますがレコード会社も10分半に及ぶ曲をよくシングルにしたなという感じです。
というか、この曲と「対自核」をシングルで買うぐらいなら迷わずLPの方を買うでしょう、普通。
1972年のライヴ録音。この時のベースはゲイリー・セインですね。
続く4曲目の「瞳に光る涙(Tears in My Eyes)」
始まりと終わりがツェッペリンみたいな曲だと思ったら(思ったのは私だけかも、ですが)、ヴォーカルを違和感なくプラントの金切り声に脳内変換してました。
中盤のアコギとムーグ、高音部のスキャットが入る部分のギターが美しい。ちらりとヴァイオリンのような音が聞こえたのはシンセサイザーでしょう。
「悲嘆の翳り(Shadow of Grief)」
悪い女に塵のように扱われ、足蹴にされてきた男の恨み節なのですが、かなりダークな曲です。
ドラマチックなキーボードがカッコよく、ところどころパイプオルガンのような音を出しています。
オルガンとギターの掛け合いからギターソロへの移行もいい。
不穏なメロディを奏でるギター、ベース、オルガン、ちょっとサバスがかっています。
終盤のムーグもうまくはまっていますが、ムーグで悲鳴のような音を出しているのかと思ったら途中からバイロンの声のようで、どちらなのか分からない。不思議なエンディングです。
対自核、7月の朝に続いて好きな曲です。
6曲目の「当為」(What Should be Done) も摩訶不思議な邦題がついたメロウな曲。
ファズを効かせたギターは悪くないけど、アルバムの中では今一つ面白味に欠けるように思います。
最後の「ラヴ・マシーン(Love Machine)」はヒープらしい曲。
骨太のシャッフルで、「対自核」と対をなしている印象です。
ミック・ボックスのギターソロも冴えているし、バイロン独特の裏声も堪能できます。
ボーナス・トラックに「対自核」と「当為」の別バージョンが各2曲入っているのは蛇足ですが、「Why」という曲は秀作です。
ヒープにしては意外なジャズがかった曲で、鼓動のようなベースもヘヴィーにファズをかけたギターも心地よい。
このアルバム辺りからユーライア・ヒープの全盛期に入っていきます。
ケン・ヘンズレー自身もヒープのサウンドのアイデンティティを確立したアルバム、と言っています。
個人的には1枚目も「ソールズベリー」も好きなので優劣はつけがたいのですが。
ちなみに日本語版のウィキペディアを見ていたら、「対自核」はザ・ピーナッツが、「7月の朝」は西城秀樹がカヴァーをしていたので驚きました。
ザ・ピーナッツがクリムゾンの「エピタフ」をやっているのは知っていましたが、「対自核」まで歌っていたとは。おそるべし、伊藤姉妹。
いや、でも、十分想像つきます。
豪の野ネコ200万匹毒殺処分の真相
当ブログは時事ネタを扱うものではありません。
しかし今回は何日も頭から離れない件があるので書きます。
あらかじめお断りしておくと私はネコが好きです。大の猫好きです。
現在の2代目の茶トラ含めて20年以上ネコと同居していますが、イエネコのみならずライオン、ヒョウ、トラ、ピューマからイリオモテヤマネコ、ツシマヤマネコに到るまで、ネコ科に所属する全ての動物に思い入れがあります。
ちなみに犬はじめ他の哺乳類も好きですが思い入れの度合いに差があります。
ネコ嫌い、猫好き嫌いの方はさっとスルーしていただければありがたいです。
さて、きっかけは10日ほど前のYahooのニュースでした。
「オーストラリア政府が200万匹の野ネコの毒殺処分を承認」
確かそんな名前のついた記事でした。
その時は全文を読む気になれませんでしたが、オーストラリアの在来生物を保護するため外来生物である野ネコを2020年までに200万匹駆除する、その目的でカンガルーの肉のソーセージに毒を入れて飛行機でばらまくことを政府が承認したということだけは分かり、非常に嫌な気分になりました。
私も年間膨大な数のネコや犬が日本国内の保健所で殺処分されていることは認識していますし、奄美大島を世界遺産にするべく3000匹のネコを殺す計画があることも知っています。
それぞれ憤りの対象ですが、オーストラリアの話の何がとくに衝撃的かと言えばその殺処分対象数の大きさもさることながら「毒殺」という凄惨な方法を用いるという点です。
そもそも好物に毒を入れて殺す、という方法は甚だ卑怯に思えます。(ちなみに自分は蟻を殺すのも毒殺は避けたいので極めて原始的な「つぶす」という手段に訴えます。自分の身に置き換えて、上から何かが降ってきて潰される方が、毒殺されるよりましだからです。)
お腹が空いている時に藪で見つけた美味しそうなソーセージが毒入りとか手段が極めて悪質です。
しかも母ネコは大体食べ物がある時、まず仔猫に食べさせる。
自分の大切な仔猫に毒とは知らず食べさせる母ネコ、悲しすぎます。
何日も頭を離れなかったため、仕方なく英文記事で詳しい情報を検索してみました。
分かったことは以下の通りです。
オーストラリアでは野ネコ(Feral Cats)が過去200年の間に増え続け、現在全土に200万匹から600万匹生息している。
野ネコは人間社会と関わらずに生きるネコで性格も行動もイエネコとは違う(と言っても捕まった檻の中の野ネコの写真を見ると我が家の猫が獲物を狙った時の顔にやや似ています)。
もとはオーストラリアに移住した人間が持ち込んだ飼い猫が野生化したのとともに、ネズミ駆除の為に意図的にネコを野に放していたという側面もある。
数が増えるにつれ、オーストラリアの在来生物である哺乳類、鳥類、爬虫類、昆虫が彼らの捕食のターゲットになり始めた。
これまで捕食者がいなかった生物は簡単に、狩猟に長けた野ネコの餌食となった。すでに20種以上の哺乳類が野ネコの捕食によって絶滅し、さらに一部のマーモットや黒足ロック・ワラビーを含め124種の生物が絶滅の危機にある。
危機感を持った豪政府は当初は野ネコの「捕獲・避妊・解放」という穏便な手段で個体数を減らす方法を試みたが、爆発的な繁殖力には到底追いつかず、一方では莫大なコストがかかった
殺処分によって生態系から野ネコを削除しようという動きは2014年ごろから本格化した。当初、フランス女優のブリジット・バルドーを始めとする動物保護活動家が猛然と抗議している。
捕獲・安楽死という方法がとられていたが、やがて銃殺、野ネコを殺した者に懸賞金を払うまでにエスカレート、それでも数百万を超えさらに増え続ける野ネコの数を減らすことができない。
それで今回の毒ばらまきという手段が政府公認プロジェクトとして発足する。
カンガルーの肉に鶏の脂肪分を混ぜたソーセージに毒薬を混ぜ小型飛行機(あるいはヘリ)で野ネコが生息する藪を中心に投下する。
ここで私は今回使われるCuriosity Bait (PAPPとも言われる)という名の毒薬について知りました。
近年440万ドル(5億円近く)かけtて開発された毒で、今までの毒薬で「より人道的(humane)に」苦痛なく死なせることができるといいます。
毒を摂取した動物は、血液の中の酸素の流れが減少し数時間で極度の疲労感、眠気に襲われ身動きが取れなくなり、運が良ければそのまま眠るように死に至る。
運が悪ければ意識があるまま体を動かせずに数時間倒れたままという状況になる。
少なくとも、長時間のたうちまわって血反吐を吐きながら絶命するという凄惨さではないようです。
が、運が悪ければ意識があるまま動きが静止し他の捕食者(鳥やディンゴ、他の野ネコなど)に食べられてしまう。
仔猫が隣で食べられていても、自分の体の自由も失った母ネコには助けることができない。
なお実験では苦しむこともなく死に至った野ネコの例複数が実験者によって記録されていますが、ある獣医によればそれでも従来型の毒と同様に苦しみを伴うというデータもあります(願わくば獣医のデータが古いものでそれ以降に改良されてより安楽型になっていることを願います)
正直「オーストラリアを代表する在来の生物を守るため」という政府の見解には疑問を感じます。
なぜ外来種を駆逐してまで在来種を守らなくてはならないのか。
家畜への被害など何らかの経済的な損失があるのか。
要は在来種の生物か野ネコのどちらを取るかで、人間様が前者を選択したということなのか?
フクロオオカミの絶滅を許しておきながら今更「外来種」だからと野ネコの大量殺戮。
外来とは言え、そもそも持ち込んだのは移住した白人。
その白人自体が先住民族アボリジニを迫害してきた最大の外来種という矛盾。
また豪政府は「野ネコとの戦争」と銘打って人間が野ネコと互角なはずがないのに、一方的な大量殺戮をまるで聖戦のように正当化しているのも気に入りません。
実験室で死なせた(安楽死)野ネコも前と後ろの脚で掴んで吊るしたポーズで実験者がスマイルを浮かべた写真をアップしており、元はと言えば人間の都合で増え続け、殺される不運に陥った生物に対するリスペクトが全くない。
これは感情論になるのでこの辺にしておきましょう。
さてまとめてみると
- オーストラリアの野ネコは数百万匹で、その繁殖力により在来種の生物が絶滅の危機に晒されている。
- これまで政府は避妊や捕獲・安楽死などの手段を講じてきたが時間とコストにより野ネコの被害の拡大に追いつくことができなかった。
- 今回毒を入れた食べ物をばらまくことで、2020年までに200万匹の殺処分を目指している。
- 使う毒はできるだけ苦痛を与えない「人道的な」殺し方をするという目的で開発されたPAPPという毒薬である。
元はといえば広い土地だからと放し飼いにしたり、後先考えずネズミ退治のために放したりしたオーストラリア人に対しては怒りしかありませんが、それでもできるだけ苦痛を与えない方向で努力をしていないわけではないということは分かりました。
人間様の身勝手で死んでいく野ネコたちが、PAPPとやらの狙い通りに苦しまず、眠るようにあの世に行くことを祈るしかありません。
キャラバンの『夜ごと太る女のために』
「キャラバンの『ピンクとグレー』が良かったけど、次に何を聞けばいい?」と周りのロック好きに聞いたところ、二人からお勧めとして挙がったのが『夜ごと太る女のために』でした。
『To Girls Who Grow Plump in the Night』(原題は「女」というより「娘たち」ですが)は1973年の作品。
このアルバム制作の前にマッチング・モールに行っていたデイヴ・シンクレアの代わりに一時入っていたキーボードのスティーヴ・ミラーが脱け、さらにベースとメインヴォーカルを担当していたリチャード・シンクレアがパイ・ヘイスティングスと音楽の方向性で対立して辞めています。
アルバム参加メンバーはパイ・ヘイスティングス(g、v)、リチャード・コフラン(d、percussion)、ジョン・ペリー(b、v)、ピーター・ジェフリー・リチャードソン(viola)、そして戻ってきたデイヴ・シンクレア(kb)です。
メモリー・レイン・ヒュー/ヘッドロス(Memory Lain, Hugh/Headloss)
このアルバムからシングル・カットした曲はないようですが、第1曲目はかりにシングル化しても売れたであろうポップス調のノリのいい曲。
ギター・リフの後のドスドスというベース音は、トーキングヘッズのサイコキラーのベースを思わせる心地よさ。
やがてヴォーカルとヴィオラが同時に入ってくる。
ヴィオラが正式メンバーってどうなの?という疑念を吹き飛ばす絶妙なフィット感で、第2のヴォーカルというか、それを超えるというか。
中盤のベースの高音部も好きだが、何と言っても中盤以降の聞きどころはパイの兄ジミー・ヘイスティングスのフルート・ソロ。心を洗われるような美しさです。
ヴォーカルのハモリも綺麗だし、ギターとキーボードの掛け合いも楽しい。
サックス、コンガなど聴くたびに新たな発見があり毎回堪能できる楽しく面白い曲です。
2曲目の『ホーダウン(Hoedown)』はコンガのリズムも軽やかにアップテンポのヴォーカルがハモリながら進行していくフォークロック調の曲。
途中からヴィオラがカントリー風のフィドリングをやっているのが面白い。
3曲目「サプライズ・サプライズ」は意のままにならないもどかしい恋を歌った曲ですが、レゲエ風のリズムに甘いメロディ。
パイの甘いヴォーカルも悪くないのですが、これはリチャード・シンクレアの声でやってほしかった。
それにしても何と洒脱なベースでしょう。
ジョン・ペリー、センスがいいなー。
後半ヴィオラの存在感ありですが、ピアノも効いています。
4曲目「C’Thlu Thlu (シースルー・スルー)」。
ラヴクロフトの怪奇小説に出てくるモンスターから題名を取っており、歌詞も何やらおぞましい存在から必死で逃げている悪夢のような内容です。
シンセサイザーが、森の中を飛び交っている人魂(ひとだま)を思わせる背筋の凍るような音を出しています。
ダークで重いパートとアップテンポのハードロックが交互に現れる構成で、終盤近くでデイヴ・シンクレアの絶妙なオルガン・ソロにたどり着きます。
「ドッグ・ドッグ(The Dog, the Dog, He's at It Again)」
1曲目の「メモリー・レイン」と並んで人気のある曲です。
この曲の魅力は、これぞキャラバンというデイヴ・シンクレアのシンセサイザーの妙技の凄さを見せる中間部分と、それをサンドイッチのように挟むメロディアスなソフトロック調の部分でしょう。
「ねえ、あんただってこの世が罪にまみれてるなんて本気で信じちゃいないだろ。
でなきゃここに来てやしないもんなあ。(この程度のことを罪だと思うほど、世間知らずじゃないんだろ)」
という色事師(わる)が誘惑しているような、デカダンスの匂いがする歌詞ですがパイはあくまでも淡々とソフトに歌っています。ジョン・ペリーとのハモも実に綺麗。
ヴィオラが彩りを添えています。
中間のデイヴのソロ部分は何度聞いても飽きません。
デイヴのシンセサイザーも凄いけど、ベースも凄いし、ヴィオラも。
全員が神がかった演奏です。
貼付したBBCのプロモ・テープでは聞かれないのですが、後半で複数のヴォーカル・パートがどんどん重なっていく部分に引き込まれて中毒になりそうな魅力があります。
プロモではオルガンを弾くデイヴの手さばき、一見の価値があります。
聴き終わって、これはすごいなとため息が出る曲です。
Caravan - The Dog, The Dog, He's At It Again [1973] (Promotional Film)
6曲目の「Be Alright」はプロペラ飛行機の飛来音で始まるハードロックで、ベーシストのジョン・ペリーがヴォーカルを担当。ギターのソロがいい。
続いて演奏される「Chance of a Lifetime」はアンニュイな曲でパイのヴォーカル。ヴィオラのソロが注目です。
「イノシシの館~狩へ行こう~ペンゴラ~バックワース~狩へ行こう」
(L’Auberge du Sanglier/A Hunting We Shall go/ Pengola/ Backwards/Hunting We Shall Go(reprise)」
最後の目玉はインストゥルメンタル曲。
このアルバムで最もプログレらしい曲です。
「イノシシの館」はアコースティック・ギターとヴィオラにシンセサイザーで出しているらしいストリングスの音がかぶさって異国情緒の入ったブリティシュ・フォーク。
爆音とともにハードロックの「狩へ行こう」に変わり、「ペンゴラ」に入ってからはオルガン・ソロ、ベース・ソロ、ギター・ソロ、ヴィオラ・ソロと次から次へ聞きどころが入っていきます。ベースのソロ分で後ろでヴィオラがトレモロをやっているのがいい感じです。
シンセサイザーとピアノで幻想的な旋律を奏でる「バックワーズ」は、オーケストラが入って壮大な背景の中シンセサイザーのソロが入る。ここでもベースが実にいいセンスです。
Caravan - 07 - L'Auberge Du Sanglier / A Hunting We Shall Go / Pengola / Backwards / A Hunting....
5曲入っているボーナス・トラックの中で好きなのは「Delek's Long Thing」という最後の曲で、ピアノにベース、さらにシンセサイザーとドラムが入っていく冒頭部分、ジャズに入ってファズの効いたオルガンが冴える中盤、終盤のオルガンソロまで11分と名前通りに長いけれどいい曲です。
ジャズ系の音楽を指向していたリチャード・シンクレアと別れ、広範囲に売れる曲を目指したパイ・ヘイスティングスのキャラバンはデイヴ・シンクレアの出戻りとリチャードソンのヴィオラとの出会いが功を奏したと言えるでしょう。
個人的な好みを言えば、もう少しジャズがかっても良かった気もします。
PPM のピーター・ヤーロウの隠れた名盤はカリブ・テイストが満載
今回取り上げるのはロック名盤というブログのテーマからやや外れますが、個人的に懐かしい名盤、ピーター・ヤーロウ(Peter Yarrow) のソロ・アルバムです。
今時の若い方でPPMを聞かれる方は少ないかもしれませんが、「パフ」、「風に吹かれて」、「花はどこに行った」など多数のヒットで知られるフォーク・トリオのPeter Paul & Mary (PPM)は日本でも60年代に絶大な人気を誇りました。
私よりも少し上の年代が主なファン層でした。
1973年リリースのピーター・ヤーロウのソロ盤も学生時代の知人、というか先輩に聞かせてもらったアルバムでした。
プリミティブなイラストのジャケットが時代を感じさせます。
アマゾンで中古LPを見つけて懐かしく思い購入したのは割と最近で、わざわざこのLP目的で当時持っていなかったターンテーブルを購入しました。
今だにCDも出ていないようなので「隠れた」と言って間違いない筈ですが、最近までなかったウェブの音源が出てきていてYoutubeにも2曲アップされていたのには驚きました。
PPMはフォーク・トリオですがこのアルバムはフォークというより、ポップス+レゲエの曲が中心になっていて、録音もNY、ロンドン、ジャマイカのスタジオで行われています。
今あらためて聴いて見ると、ピーターの、というよりバックを務めるスタジオ・ミュージシャン達のクオリティの高さが印象的です。
一曲目の表題作「That's Enough for Me」はポール・ウィリアムズの曲。
これほど美しいラヴ・ソングはそう多くはないでしょう。
ウィリアムズはギターで弾き語っていますが、こちらはアコギ、ベース、ピアノで始まり途中からストリングスが入ります。
「もし君が幸せのあまり泣いてくれたら、もし抱きしめるだけで君の瞳を喜びで満たすことができたら、それだけで僕は十分なんだよ。それだけで僕は十分ヒーローなんだ」という歌詞を、ヤーロウは顔に似合わない美声で歌っています。
いつ聴いてもいい歌ですが、惜しむらくはストリングスがいかにも70年代、という時代を感じさせます。
That's Enough For Me - Peter Yarrow
「Isn’t That So」はジェシー・ウィンチェスター作で、カントリー・ブルース風の曲です。
ベース、パーカッション、ギターで途中からマウス・ハープが入っている。
ベースの動きがしゃれています。
Isn't That so
3曲目の「The Morning After」はLPの盤面には「Love's Way」という名前で載っています。
ピアノのイントロで始まる綺麗なラヴ・ソングです。
この曲は確かコピーした記憶がありますが、途中のベースの高音部がすごくかっこいい。
4曲目はポール・サイモン作でポール・サイモン自身がプロデュースで参加した「グラウンド・ホッグ」が入っています。
のったりとしたメロディのほのぼの感のある曲ですが、歌詞は人生の悲哀を感じさせます。
マウス・ハープがいい味出していますが、マンドリンの音が微かすぎてもうちょっと全面に出て欲しかった。
楽器のクレジットにムーグが入っているのですが、どこでムーグが使われていたのか最後まで不明です。
グラウンド・ホッグ(ジリスまたは北米産マーモット)
Side 2の「Harder they Come」はジミー・クリフによるレゲエの名曲。
リズムの歯切れの良さとストリングのコンビネーションが面白い。
Side 1の最後の「Wayfaring Stranger」もそうなのですが、ヤーロウ本人よりバックに入っているジャマイカのシンガーのこなれ感が凄い。
Side2の3曲目「Just One Pass」はヤーロウ自身の作ですが、カリブ風のノリのある楽しい曲。
ここでもバックのコーラスがメイン・ヴォーカルを食っています。
というかヤーロウの声がレゲエを歌うにはストレートな美声なので、名脇役のジャマイカン・シンガーの個性が生きているという印象です。
上記以外にもいい曲が揃っていて、PPMが好きな方は多分持っていると思いますが、特にPPMが好きでなくてもフォークが好きでなくてもお勧めです。
しかし、中古のLPというのはやはり中古だけのことはあります。
まず「Harder They Come」や「That's Enough for Me」の途中でビンビン針が飛びまくります。古いビニール盤は針が飛ぶ、というのを久しぶりに思い出しました。
さらに、なぜかジャケットに書いてある曲名がレコード盤に載っている曲名(収録されている曲名)と違うのが2−3曲あるし、ジャケットには記載されているジミークリフの1曲がなぜか収録されていない(脱力)。何で?