60−70年代ロック第2弾 ユーライア・ヒープの「ソールズベリー」
はい、小説家のディケンズです。「クリスマス・キャロル」や「オリバー・ツイスト」で有名な。そのチャールズ・ディケンズが住んでいた家がミュージアムになっていますので、ご興味がありましたら今度ロンドンに行かれる際にはぜひ寄ってみて下さいませね。オリバーを書いていた部屋などが残っていますし、ヴィクトリア時代の生活が忍ばれてなかなか面白いですよ。
ディケンズの「デヴィッド・カッパーフィルド」という小説に出てくるのが、ユーライア・ヒープという人物なんですね(多分発音はユライア)。
このヒープという人物はまず容姿からしてえらい無気味な男です。眉もまつ毛もほとんどなくて眼窩の窪みもなく赤茶色の目がむき出しになっているのでカッパーフィルドは彼がどうやって眠るのかと疑問に思ったりしています。口を開けば「自分はumbleな(humble=卑しい)者だと極端に卑下してみせるエセ謙遜家なのですが、実は心根も卑しい、ようは悪党であることがのちに露見します。
バンドのユーライア・ヒープはディケンズ没後100年の年にディケンズにあやかって名付けられたとのことですが、なぜまたよりに寄って悪役の名前をつけたのでしょうか。
バンド名も面白いですが、このバンドの曲の日本語訳もなかなか凄いものがあります。「ルック・アット・ユアセルフ(己自身を見よ)」が「対自核」‥「対自核」。何か物理の実験みたいです。「イージー・リヴィン」が「安息の日々」って、いきなりユダヤ教かよって。
さて今夜のアルバム「ソールズベリー」はバンドの2枚目のアルバムで、陸軍練習場のあるソールズベリ平原がテーマになっています。
ソールズベリ平原といえば有名なストーン・ヘンジもありますね。
さてお飲物はエールがご希望ですね? ジョン・スミスでよろしいですか?
パブめしはソールズベリー・ステーキがお出しできますが‥‥え、それは普通のハンバーグじゃないかですって?
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ギターとベースが織りなす闇夜に響くコーラスに続き、闇をつんざく怪鳥かヌエのようなけたたましい叫びで始まる第一曲目は「バード・オブ・プレイ」。
猛禽類のことですが、邦題の「肉食鳥」の方がこの曲で歌われている女の魔性(死語?)をよく表しているじゃありませんか。
ギター、ベース、ドラムスの一糸乱れないユニゾンに加え、次の「ザ・パーク」でもある曲の途中でブツリ、ブツリと入る巧妙なブレイク。
が、この曲の聴き所はなんといってもボーカルのバイロンでしょう。通常の音程とファルセットを自在に行き来させながら、恐ろしくも魅力的な女の襲来と、心を文字通り鷲掴みにされてしまった男の懊悩を鮮やかに描き出しています。
籠に入れたつもりでも男のほうが征服されてしまっている。「飛んでいってくれ」と何度も懇願しながらも彼女から離れることができない。それはセイレーンの妖しい歌声に魅せられて暗礁に乗り上げた船乗りさながらに破滅的で救いようがありません。
次の「ザ・パーク」(公園)は前曲とは対照的に美しいバラードです。
ハルモニウムとアコースティック・ギターの柔らかな旋律に導かれ、ファルセットのみのボーカルがひとり公園の中を歩いていく様子を描写しています。複数回の録音でファルセットでセルフ・ハモリングしているのが実に美しい。木々の緑、馬、子供達。のどかな公園の風景が絵のように淡々と語られていきます。
穏やかで平和な情景です、途中までは。
ブレイクとインスツルメントをはさんだエンディング部分で、その美しい情景の中に存在しない人物が語られます。ここに至って、これまでの美しい描写はすべてこの空白を浮かび上がらせるための設定であったことに気がつきます。死を語るための生の描写であったと。写真のポジとネガが見事に反転して背筋がぞくりとします。
無意味な戦争で死んだ兄、と反戦のメッセージではありますが、大上段に構えた反戦歌ではないところに心打たれるものがあります。私自身はこのアルバムでもっとも好きな曲です。
3曲目の「Time to Live」(生きる)は殺人罪で20年間監獄に入れられていた男が明日刑期を終える、これから生きるぞ、愛する女性はあの笑顔で自分を迎えてくれるだろうかという歌です。ミック・ボックスのワウ・ファズを効かせまくったギターは聴きたえはありますが、曲はあまり印象に残りません。
4局目の「Lady in Black」(黒衣の娘)はこのアルバムでおそらくもっともポピュラーな曲でしょう。全世界で何度もシングル・カットされているとか。
黒衣の、というとスーザン・ヒルの「黒衣の女」の印象もあって邪悪で忌むべき存在という印象がありますが、この曲の黒衣の娘は全く逆で人間の理性を象徴する存在、癒しと平安を与える存在のようです。
ケン・ヘンズレーは吟遊詩人のように幻想的な情景を物語ります。
冬のある日、廃墟の暗がりを歩いていた主人公の前にどこからともなく黒衣の女性が現れる。そなたの敵は誰かと問われた青年は、ある人たちの心に潜む人と抗い人を殺めることを厭わず神の愛を知らない欲望ですと答え、その敵と戦うために馬をくださいと女性に懇願する。黒衣の娘は戦いは人を獣にする、始めるのは易く終らせることは難しいと彼の願いを拒絶する。
彼女が知恵を授ける「すべての人類の母」であると知覚した主人公は自分のもとに留まってほしいと願うが、手をさしのべて癒しを与え、必要なときにはいつでもそなたの近くにいると言い残して、どこへともなく姿を消す。
青年は立ちつくし、女の黒い衣が消えていくのをなすすべもなく見つめている。そのあとも彼の人生は楽ではなかったが、あの冬の日のことを思い出すと自分は一人ではないと思えるようになった。もし黒衣の娘があなたのもとを訪れることがあったらその知恵を受けるがいい、そして私からよろしくと伝えてほしい。と、まあこんな内容です。
ゴシック・ファンタジーの雰囲気があります。Wikiによるとその時心に苦悩を抱えていたケン・ヘンズレーがある冬の日曜日に出会った女性牧師にアドバイスをもらったエピソードが土台らしいのですが、そんなネタ明かしよりも、人間の理性を呼び覚ましてくれる人知を超えた何者かがときどき人を訪れるという普遍的なメッセージと考えたほうが楽しいですよね。特定の宗教や国に対するヘイトが蔓延する今の世にも黒衣の娘が来てくれるといいですね。
この曲のバックはズシン、ズシンと引きずるように重たいリズム・セクションとアコースティック・ギター。途中で聞こえるストリングスはおそらくメロトロンでしょうか?
バイロンはなぜかこの曲があまり好きではなかったようでヘンズレーがボーカルを担当しましたがそれが功を奏したようです。この曲の評価の高さがバンド内のヘンズレーの立ち位置をさらに強くしていったに違いありません。
5曲目の「ハイ・プリーステス」。なぜか邦題で「尼僧」と訳されていますが、愛する女とこれから生きていこうという内容の歌です。その女性をハイ・プリーステスと崇めて呼んでいるのでしょう。
プリーステスは異教の女祭司であり、タロット・カードの2番であるハイ・プリーステスもスピリチュアルな存在であると同時に性愛と美を象徴しています。この曲は後半で左右のスピーカーから来るミック・ボックスのギターのソロが互いに絡まり何とも美しい。スタジオ録音ならではの楽しみですね。
ハイ・プリーステス様です。
最後の「ソールズベリー」は15分におよぶロック交響詩です。
最初の数分はNHK大河ドラマのテーマ曲を思わせます。壮大に打ち上げたあとにどうなるのかと思ったら色んな音が溢れ出してきました。ちょっと盛り過ぎの感があります。
シンセサイザーと思った場所はオーケストラらしい。ケン・ヘンズレー自身、「色々な音が入っているので聴く度に新しい発見があるはず」と書いています。たしかに2度目に聞くと、あ、ここにフルートが、とか、このうしろに聞こえる微かな音は何だったんだろう、とか。
オルガン・ソロのあたりからのベースの動きが本当にいいです。ポール・ニュートンさん、グッジョブ。ウッドベースを思わせる柔らかい音色で高音部も綺麗です。
歌詞は終わりかけた恋愛の話でソールズベリーの英軍の訓練所と表紙の戦車とも関係ありません。じゃジャケ写真は何だったんだ、と拍子ぬけします。この曲について言えば、ヴォーカルは様々な音のひとつという位置づけではないでしょうか。
それにしてもバイロンの前半あたりの歌い方、グレッグ・レイクに似てません?全然?そうですか。
後半になってミック・ボックスのギターとオルガンの絡みが、左右から触手を伸ばしてもつれあっている植物のようで面白い。
ソールズベリーは、平原に息づいている生命体の集合のようです。そこに小鳥や蛙がいたり、風が吹いて草が波打ったり、花が揺れたり。見渡す限り人間はこの男女だけで、男は手から砂がこぼれるように愛が失われていくのを見つめている、そんな光景が頭に浮かびます。
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一言でいうと、ずっしり来る重厚なアルバムでした。
技巧はあるけれど妙に洗練されている訳ではなく、いろいろ試みている様子が伺えます。
この後、ヒープは「対自核」、「悪魔と魔法使い」、「魔の響宴」といったアルバムで全盛期を迎えます。「ソールズベリー」はその前夜祭と言えるかもしれません。
おまけ画像はソールズベリーの市内
(冒頭写真はアルバムジャケットからの引用)
High Priestess画像は©US Games Systems, Inc.